満福寺は義経ゆかりの寺としておなじみです。
義経は平家を壇ノ浦でやぶり、凱旋して鎌倉入りを果たそうとしますが兄頼朝に足止めされます。
この寺で有名な「腰越状」を書き、頼朝に和解を得ようと差し出しますが許されません。
これは、義経が後白河法皇から勝手に任官を受けたためだといわれています。

では、なぜ頼朝に差し出した「腰越状」が満福寺に残っているのでしょうか。

龍護山満福寺
鎌倉市腰越2-4-8
江ノ島電鉄「腰越」駅下車徒歩3分

龍護山満福寺の本堂
龍護山満福寺の本堂

江ノ電が走る満福寺前
江ノ電が走る満福寺前

 

 

現存の「腰越状」には脱字が

「腰越状」は弁慶の代筆…
「腰越状」の弁慶の代筆

満福寺にある腰越状は書き損じたために残っているといわれています。

「不顧為敵亡命」
(敵のために命を落とすことも顧みず)

という6文字の脱字があり、これを弁慶が加筆して、本書は大江広元に届けたはずですので、同寺に残るものは下書きになります。

文末(写真)に「元暦二年五月日 源義経 進上 因幡前司殿」とあり、義経が頼朝側近の大江広元(因幡前司)宛に書状を差し出しています。

 

源義経の生涯を描いた襖(ふすま)絵

鎌倉彫の技法をとりいれた漆画

本堂内は、鎌倉彫の技法をとりいれた漆画の襖絵で彩られています。
「義経と静」の別れの場面等、義経の生涯の有名な場面を描いた32面の襖絵です。

これは昭和60年(1985)、当時鵠沼に在住の大工さんが描いたものです。

 

山号「龍護山(りゅうごさん)」の由来

元来寺院の多くは山の中にあり、山の名「山号(さんごう)」で呼ばれていました。

当寺の山号は「龍護山」で、由来は江の島から片瀬・腰越方面を眺めると山並みが龍に見えることから。
そして龍口寺が頭の部分で、満福寺は尾の部分となります。
尾は龍自身を護っています。
そこで、「龍護山」になったという言い伝えがあります。

 

 

 

かん治さん

「鎌倉検定は1級で
 お酒は2級を飲んでいまして、
 プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」
がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。