信濃国住人の御家人泉親平が源頼家の遺児、千手丸を擁し北条義時討伐を計画。その発覚が和田合戦の発端で、賛同者の中に侍所別当和田義盛の四男義直、五男義重、甥の胤長(たねなが)の名がありました。
義盛は頼朝の旗上げ以来、数々の功績があり、赦免を将軍実朝に直訴し義直、義重は赦(ゆる)されます。
しかし執権義時は首謀者の胤長を赦さず、義盛はこれを不満として義時討伐に挙兵します。

和田一族を埋葬した和田塚

今宮
鎌倉市由比ガ浜2-19-3
江ノ電和田塚駅徒歩1分

和歌で助命されたお礼に架けられた“歌ノ橋”

義時討伐計画の中に渋河刑部六郎兼守の名があり…

歌ノ橋(雪ノ下)

兼守は無実でしたが処刑が決まり、悲しみの余りに、十首の和歌を荏柄天神社に奉納。
この歌を歌人として名高い将軍実朝がご覧になり、大変感銘し罪を赦します。
和歌のおかげで命が助かり、お礼に兼守がかけた橋なので“歌ノ橋”の名が。
宝戒寺前から金沢道を東方面に行き、荏柄天神社参道入口の少し先の二階堂川に架かる橋です。

 

由比ガ浜で和田一族は滅亡します

建保元年(1213)5月に和田合戦が起こります

稲瀬川河口から見る由比ガ浜

和田義盛はこの戦いで死力を尽くしますが同族の三浦義村の裏切りもあり、和田軍は力尽きて、前浜(由比ガ浜)の辺りに退去します。
義盛はもはやこれまでと敵陣に突き進み、東国武士らしい67歳の生涯を閉じます。
この浜で和田一族は滅亡し、首実験も行われたようです。
「和田家」は和田一族の戦死者の遺体を葬った場所とされています。

 

落語『鎌倉星月夜』

奥女中の取締役局の松島は18歳で絶世の美人。
松島に一目ぼれの義時の次男・朝時は恋文を送るが返事がないので、朝時は歌会の夜に松島に襲いかかる。
松島が「あれっー」と悲鳴を上げると、豪傑として知られる和田義盛の三男朝比奈三郎義秀が現れて窮地を救う。
今度は松島が朝比奈に惚(ほ)れて恋文を送ります。
めでたく二人は北条政子の媒酌で婚礼をあげますが、朝時は二人への憎しみが募ります。
政子はかわいい甥・朝時のために二人の仲を引き裂くと、松島は思い悩み自害。
これが北条vs和田の和田合戦の発端と相成ります。

 

かん治さん

「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。