伊東祐親(すけちか)は北条義時の母方の祖母、平安時代後期の武将で伊豆伊藤庄の領主でした。
平氏に仕えて、伊豆に流罪の源頼朝の監視役を担っていますが、頼朝が祐親の娘に一子を生ませると激怒してその子を殺害。
頼朝も命を狙われて、北条氏に身を寄せ結果的に北条政子と結ばれます。
後年に祐親は、源頼朝の助命を断り自刃。
祐親が開基の東林寺には一族のお位牌が安置されています。

東林寺の本堂
東林寺
伊東市馬場町
JR伊東線伊東駅下車徒歩20分

 

伊東祐親の馬上姿の像

伊東駅からバス乗車し「大原町」下車徒歩5分

伊東祐親の馬上姿の像

伊東市役所前の物見塚公園に像が建っています。
伊東氏は藤原氏を祖とする一族で祐親が活躍の平安時代後期には河津町や伊豆市の一部の所領していたようです。
祐親は源平合戦では、頼朝から勢力を増す源氏側に付くよう打診されましたが、平氏への忠節を尽くし、武将として意地を貫きとおしました。

伝・伊東祐親の墓所

バス停「大原町」から徒歩3分

伝・伊東祐親の墓所

墓は安山岩の五輪塔で、空風輪、火輪、地輪の組み合わせで構成されています。
文字ははっきりした薬研(やげん)彫りで刻まれ、墓の大きさから、領主祐親を讃(たた)えるものとして制作されたようです。
五輪塔は伊東家の子孫が鎌倉時代末頃に先祖供養のために造立したと見られています。

 

相撲の技の「かわづかけ」の由来

祐親の子の河津三郎祐泰は、奥野の相撲で大活躍していて、「河津掛(かわづかけ)」の名が現在でも相撲の技に残っています。
相撲界では大切な人で、境内に建つ相撲協会の顕彰碑は昭和34年(1959)5月に建てられ、当時の時津風理事長(元双葉山)が除幕して、名横綱栃錦が碑の前で土俵入りを奉納しています。
また、河津三郎裕泰の墓、孫の曽我兄弟(十郎・五郎)の首塚は当寺の左側山の上に祀(まつ)られています。

かん治さん

「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。