玉縄城(現在本丸跡は清泉女学院内にあります)は北条早雲が三浦氏攻略のために築城し、その砦(とりで)として永正2年(1505)に初代玉縄城主北条氏時が創建したのが二伝寺です。

玉縄城とは尾根続きで玉縄城砦の中で一番高い場所にあり戦国時代に鎌倉第一防備線の役目を果していました。

二伝寺
藤沢市渡内3-13-1
藤沢駅から江ノ電バス渡内循環で「渡内中央」下車徒歩8分

二伝寺の本堂
二伝寺の本堂

二伝寺から望む大船観音
二伝寺から望む大船観音

 

 

二伝寺境内の墓地には

松平正次・福原家・平良文三代の墓
平良文公の墓
平良文公の墓

本堂の右手墓地には江戸時代に二伝寺を中興した松平正次一族の宝篋印塔(ほ
うきょういんとう)があります。

その裏手にはこの地の名主で当寺と深い関係のある福原家の墓があり、竹林の山頂には平良文(平将門の叔父で坂東八平氏の祖の一人)とその子の忠光・孫の忠通の三代の塚があります。
良文の塚の部分が藤沢市内で標高が一番高い地点のようです。

 

浄土宗の高僧が二伝寺で出家

本堂の幡随意白道上人像の手に軍配

名主の福原家は古くは三浦一族の出で、江戸時代の少し前に福原家の娘の嫁ぎ先で誕生したのが「幡随意白道(ばんずいいびゃくどう)上人」です。

上人は善行(藤沢)松本家の出身。
二伝寺で出家をした浄土宗の高僧です。
学徳の高い僧侶で徳川家康に信頼を受け、家康から賜わりの軍配を持つ上人像が本堂に坐しています。
京都百万遍知恩寺の住職を務め、また江戸・神田の新知恩寺幡随院の開山です。

 

“なるほど”の話『二伝寺名の由来』

鎌倉の大本山光明寺に江戸幕府から伝書(仏法を師から弟子に伝える書物)の要請がありました。
実は紛失していたので困りましたが、本山伝の写し、つまり二つ目の伝書が二伝寺にあり、本山を救いました。

そこで創建当初の寺名が変更になり『二伝寺』になったと伝えられています。

 

 

かん治さん

「鎌倉検定は1級で
 お酒は2級を飲んでいまして、
 プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」
がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。