広元は初代公文所別当で鎌倉幕府の文官として活躍

広元は源の頼朝の招きで鎌倉に下向。
頼朝に守護、地頭の設置を献策し、また、承久の乱では、上洛を主張し幕府側の勝利に貢献します。
広元邸は、十二所(じゅうにそ)の明王院の辺りで近くには広元を祀(まつ)る大江稲荷社があります。
その御神体は明王院の観音堂に安置されており、今年は明王院で4/1(金)~30日(土)、特別に御開帳され御朱印が受けられます。

大江稲荷社
大江稲荷社
鎌倉市十二所114
JR鎌倉駅からバス「十二所」下車徒歩3分

 

胡桃山(くるみやま)にある「伝・大江広元の墓」

大江広元の墓は明王院裏山の胡桃山にあります

伝・大江広元の墓

明王院の東側・胡桃山の山道を上り、瑞泉寺方向に向かうハイキングコースの途中に弁天様の祠(ほこら)があり、そこを左に行くと頂上には大江広元の墓と伝わる五層塔があります。
広元邸の山頂に墓を建てたと思われます。
石層塔で高さは1m70cmほどで、椎(しい)の木の側に建っています。

 

大江広元の子孫は日本歴史市場の随所で活躍します

広元は嘉禄元年(1225)に78歳で没します

広元の子の季光(すえみつ)は相模国毛利壮(愛川町辺り)を本拠として毛利姓を名乗ります。
季光は後に宝治合戦で亡くなると子孫は安芸国(広島県)に移り、戦国大名の毛利元就の祖となります。
孫の輝元は豊臣秀吉の五大老となりますが、関ヶ原の合戦に敗れて萩(山口県)に移ります。
明治維新では、その萩の士族が活躍をしています。

 

「贔屓(ひいき)の引き倒し」の語源

西御門の義時法華堂跡の山の中腹には「やぐら」が三つあります。
その中央にも「大江広元の墓」があります。
墓の左側の「贔屓」が石碑を背負っています。
「贔屓」とは、龍の子で亀の姿に似た伝説上の生き物です。
重いものを背負うのを好みので、石柱や石碑の土台の台座として使われるようになります。
「贔屓」を引っ張ると石柱が倒れますね。
これが「贔屓の引き倒し」の語源のようです。

大江広元の墓と”贔屓”

 

かん治さん

「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。