鎌倉小町の「宝戒寺」は天台宗の寺院です。
開山は円観慧鎮。
開基は後題醐天皇です。
伽藍の建設には天皇の勅命を受けた足利尊氏が当たったといわれます。
鎌倉の「萩寺」とも呼ばれます。
鎌倉駅東口から徒歩13分
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枝垂れ梅の名所です
今年1月22日に「太子講」を見学。
多くの方々が参加されました。
当日は白のスイセンが咲いていましたが、2月には白い枝垂れ梅が、秋のお彼岸には白萩が楽しめます。
白い花が似合う寺院です。
なお、本堂内には本尊の子育経読地蔵菩薩像(重文)、中央には「太平記」の主役である、後醍醐天皇、北条高時、足利尊氏、東勝寺で戦没した北条一族などの位牌ほかがまつられています。
北条氏執権の屋敷跡
この地には鎌倉幕府第2代執権・北条義時が小町邸を造って以来、北条一族の中でも「得宗家」と呼ばれる北条氏本家の屋敷があったようです。
元弘3年(1333)5月22日同寺裏山の葛西ヶ谷にあった東勝寺で自刃した北条一族の菩提(ぼだい)を弔うため、また国宝的人材を養成する道場として創建されました。
北条一族の屋敷跡に建つ鎮魂の寺といえます。
小ばなし「太平記」
「太平記」は鎌倉時代後半から南北朝時代にわたる50年余りの戦乱を記した歴史文学書です。
鎌倉幕府は滅亡し、建武の新政となり後醍醐天皇(南朝)は天皇中心の政治を行います。
しかし公家の下僕のように扱われる武士団は再び武家の天下を望みます。
すると足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻しますが京都の合戦で敗れ、九州に落ち延びます。
尊氏は光厳上皇(北朝)の院宣を手に入れ再び戦います。
その時に、後醍醐天皇の忠臣楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を勧めますが、後醍醐天皇は聞き入れませんでした。
なぜかと言いますと『後醍醐天皇は“なんちょう”だった!?』
かん治さん
「鎌倉検定は1級で
お酒は2級を飲んでいまして、
プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」
がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。