源頼朝は治承4年(1180)10月に鎌倉に入ると、大蔵(大倉)の地に寝殿造の屋敷を新造します。
ここが最初の御所で「大蔵幕府」と呼ばれ45年間この地にありました。
頼朝はここに侍所・公文所(後の政所の一部局)・問注所等を設置して幕府の形を造ります。
幕府草創から滅亡までの153年間に幕府は2度移転しており、現在、幕府跡の位置を示す石碑が3カ所に立てられています。

大蔵幕府跡の碑

今宮
鎌倉市雪ノ下3-11(清泉小学校側)
鎌倉駅東口から徒歩17分

宇津(都)宮辻子幕府跡

北条政子が亡くなり将軍御所を移転

宇津宮辻子幕府跡の碑(宇津宮稲荷)

若宮大路沿いの鎌倉彫会館の小道を入ると「宇津宮稲荷」があり、「宇津宮辻(子)幕府旧蹟」の石碑があります。
三代執権北条泰時が嘉禄元年(1225)ここに幕府を移し約11年間、幕政を営みました。
この地では宇都宮頼綱の屋敷跡と伝わります。
頼綱は北条時政の娘婿でしたが時政が失脚すると北条義時に謀反の嫌疑をかけられます。
頼綱は出家し潔白を示し、また歌人として名高く宇都宮歌壇を起こします。

 

若宮大路幕府跡

親王屋敷とも呼ばれていた

若宮大路幕府の碑。
黒い塀は、野尻邸(旧大沸次郎茶亭)の大和塀

宇津宮稲荷から路地を北側へ300mほど歩くと、「若宮大路幕府旧碑」という石碑が建っています。
6代将軍宗尊親王から9代将軍守邦親王まで4代にわたり親王将軍が続いた御所なので親王屋敷とも。
嘉禎2年(1236)から元弘3年(1333)の幕府滅亡までの97年間、この地に幕府がありました。
北条泰時亭のあった所と考えられています。

 

「宇津宮辻子」の辻子とは…

「辻子」は「ずし」と読みます。
同じ読みの「逗子」は鎌倉市の隣市です。
「厨子」は仏像などを安置する仏具です。
「頭子」は枕の一種です。
さて、「辻子」は「辻(つじ)=道が交差している所」ではなく、大路・小路を結ぶ道路です。
「宇津宮辻子」は若宮大路と小町大路を結ぶ道でした。

 

かん治さん

「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。