同寺は臨済宗建長寺派の寺院で山号は粟船山(ぞくせんざん)です。
“粟船(あわふね)”は、大船の古名。
開基は三代執権北条泰時で、妻の母の供養のためにこの地に“粟船御堂” を建てたのが始まりです。
開山は退耕行勇と伝わります。
泰時が60歳で亡くなると、同寺に葬られ、法名の“常楽寺”殿を寺名としました。
泰時の墓が境内に祀(まつ)られています。
大船駅東口から徒歩15分
常楽寺は“建長寺の根本”です
五代執権北条時頼が宋僧蘭渓道隆を鎌倉に招来
道隆禅師は建長寺の開山となる前に、ここで弟子たちに臨済禅を教えたので、“建長寺の根本(こんぽん)”と呼ばれています。
仏殿の本尊・阿弥陀三尊像は鎌倉時代の作で泰時が没する3日前の銘があります。
鎌倉市内最古の銅造梵鐘は時頼が祖父泰時の追善供養で鋳造の国重文です。
仏殿内の本尊阿弥陀三尊像
裏山の中腹に祀られる木曽塚と姫宮塚
姫宮塚は“大姫”の塚の説もあります
木曽(源)義仲の嫡男義高(11歳)は頼朝と政子の長女大姫のいいなずけ(人質)として鎌倉に送られます。
しかし、元暦元年(1184)1月に義仲は源義経軍に攻められて討ち死に。これを知った義高は身の危険を感じて逃れますが武州の入間河原で討たれます。
同寺の裏山には義高の墓と伝わる塚があります。
同じ裏山にある姫宮塚は泰時の娘の塚と伝わっていますが、一説には義高を慕う“大姫”の塚ともいわれています。
義高の墓は江戸時代に移されたと伝わります
水戸藩主徳川光圀が編さんの『新編鎌倉志』には常楽寺図が記され“木曽塚”が描かれています。
元は常楽寺の数百メートルほど西南の田んぼの中にあり、里人は“木曽免(きそめん)”とよび、義高の塚だと伝えてきました。
鎌倉での首実検の後ここに葬られ、江戸時代に村人が塚を掘り出して今の所に移したようです。
塚の中に青磁の瓶があって枯れた骨が泥に交っていたのを洗い清めて塚を立てたといわれています。
かん治さん
「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。