『吾妻鏡』に鎌倉幕府第2代執権北条義時は元仁元年(1224)6月13日に62歳で死去、
18日「戌の刻に前奥州禅門(義時)の葬送、故右大将家(源頼朝)の法華堂の東の山の上を以て墳墓と為す」、8月8日には「今日故奥州禅門室(義時)の墳墓堂(新法花堂と号す)供養なり」の記述があります。
その法華堂は火災等で建物は焼失し廃絶しました。
時代を経て、平成17年(2005)に行われた発掘調査により、
8.4m四方の平面正方形の建物跡が確認され、『吾妻鏡』の記述が裏付けられました。
北条義時は武家政権を成立させました
義時は頼朝の政治的な後継者
頼朝亡き後、嫡男頼家が2代将軍に就任しますが、その力量は無く、
政治は「十三人の合議制」で動きます。
結果的には13人の中で一番若い義時が鎌倉幕府の最高権力者になります。
比企氏の乱・和田合戦・承久の乱等の権力争いで武家政権の土台を固め、
頼朝の政治的な後継者となります。
源頼朝の墓
墓のある一帯には頼朝の法華堂が建っていました
正治元年(1199)頼朝が53歳で没すると、この法華堂に葬られます。
頼朝は武家政権の創始者として後の時代の武士たちからも崇敬され、
現在の墓域は安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪(しげひで)によって整備されました。
明治の神仏分離令で、この地に頼朝を祭神とする白旗神社が建立されています。
「よしときさま」の話
源頼朝の墓の東側の裏山には大江広元と島津忠久の墓があり、この山はさらに東に延びています。
その東側には「よしときさま」また「よきときさま」と呼ばれる「やぐら」があり、
30数年前までは狭い山道を登って行くとお参りができました。
「やぐら」の他に小さな墓石があったような気がします。
現在では道が無くなり行くことはできません。
来年が「旬」(NHK大河ドラマ・義時役は小栗旬さん)の義時のお話は、この辺で「よしとき」ます
かん治さん
「鎌倉検定は1級で
お酒は2級を飲んでいまして、
プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」
がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。