八雲神社は永保年間(1081~1084)の創建と伝わります。
『後三年合戦』で新羅三郎義光公は兄八幡太郎義家公の助勢に奥州に向かいます。
その途中に、鎌倉に入ると悪疫流行で里人が難儀をしているのを知って、
これを救うために京都の祇園社を勧請します。
すると悪疫は退散し里人は安堵(あんど)します。
鎌倉最古の厄除神社の由緒です。

八雲神社の社殿
鎌倉市大町1-11-22

八雲神社の社殿

 

 

八雲神社の例祭

現在の日程は7月7日~14日の間の土曜から3日間

元は鎌倉祇園社や祇園天王社・佐竹天王社の名称でしたが明治維新により八雲神社と改称。
例祭は、大町住民から「大町まつり」として親しまれ、
「神輿渡御」「鎌倉囃子」「天王唄」などの神事芸能が伝承されています。
なお、今年は「大町まつり」は中止で、神事は執行されます。

 

同神社宮司家家紋の由来

佐竹氏と同じ「五本骨扇に月の丸」です

五本骨日の丸扇の紋

宮司家は元義光公の家来衆と伝え、神社創建の折、神主として土着したといわれています。
義光公の子孫にあたる佐竹氏滅亡の時、幼君を世継ぎの子として預かり以後、家紋は佐竹氏と同じ紋を用いるようになったといいます。
源頼朝が奥州合戦に向かった時に、佐竹秀義が軍勢に加わりますが無地の白旗のため、
頼朝は咎(とが)めて、佐竹に月の出を描いた扇を上げ、旗の上に付けたのが由来です。
大町の「大宝寺」は佐竹屋敷跡で佐竹氏の霊舎がありましたが、後に天王社(八雲神社)に合祀(ごうし)しました。

「天水盤(てんすいばん)」奉納の鋳物師の話

社殿前の天水盤は、埼玉県川口市の鋳物師鈴木文吾氏が製作し縁あって同神社に奉納。
文吾は昭和39年(1964)開催の東京オリンピックの聖火台製作を当時最高の鋳物師・父萬之助と共に開始します。
聖火台は直径2.1mの大きさのため、文吾は広島まで出向き大きな鋳物の鋳造を学びます。
途中で父の死に遭う悲しみの中でも懸命の作業を続けます。
ついに重量感のある大きな聖火台ができると、その中に父の名前を略した『鈴萬』を刻み、父に完成の報告をしています。

社殿前の天水盤

 

 

かん治さん

「鎌倉検定は1級で
 お酒は2級を飲んでいまして、
 プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」
がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。