深沢小学校裏手のやぐらの中に、四基の五輪塔があり、梶原平三(へいぞう)景時とその一族の墓と伝わります。
景時は平氏軍でしたが、石橋山の合戦で源頼朝を見逃して救い、後に、嫡子源太影季(かげすえ)らと頼朝に仕えます。
平氏追討では源義経の副官でしたが、頼朝に義経のことを讒言(ざんげん)。
これが頼朝兄弟の不和の一因となります。
頼朝死去後、結城朝光を讒言すると他の有力御家人等の反感を買い、正治2年(1200)上洛の途中、駿河国清見関で敗死します。
深沢小学校校舎前のカジノキ
校章は「かじの葉」に「深」を記しています
「かじの葉」は「梶原」の地名に由来し、この辺り一帯が「梶の木が生えた原」だったようです。
恒武平氏の流れを組む梶原氏は、先祖の鎌倉影久が鎌倉郡梶原村に住んで梶原太郎を称したのが始まりと伝わります。
「平三」は「平氏」、「源太」は「源氏」の意で、元々は平氏で後に源氏に仕えたのが梶原父子の名前の由来と思われます。
梶原御霊神社
梶原の鎮守で祭神は鎌倉権五郎景政公
景政の一族は各々独立して、梶原氏、大庭氏、長柄(ながえ)氏を名乗ります。
その中の子孫である梶原景時が景政の霊を祀(まつ)り、建久元年(1190)に創建と伝わります。
梶原氏が滅んだ後には土地の人々に守られ、梶原村の鎮守となりました。
深沢小学校東側に鎮座しています。
歌舞伎 『梶原平三譽石切(ほまれのいしきり)』
歌舞伎では景時は智勇備えた平家方の武将として登場。
石橋山合戦後に“鎌倉八幡宮”に参詣に来たのは、平家方の武将・大庭兄弟と景時です。
そこに源氏方の素性を隠した老父と娘が刀売りに来ます。
大庭は景時に刀の鑑定を依頼。
景時は「希代の名剣」と称賛し老父と囚人の“二つ銅”(二人の銅)を試し斬りしますが、わざと失敗。
大庭兄弟は、嘲けり立ち去ります。
景時は父娘の刀売りは頼朝再挙の軍資金調達と見抜いていて、自分の本心は源氏方にあると話します。
景時は名剣である証拠に神前の手水鉢を一刀両断にして斬って見せます。
喜ぶ父娘に刀を買う約束をして、連れだって屋敷へ帰ります。
名刀を介しての晴れやかな心の響き合う一幕です。
かん治さん
「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。