「北條寺」寺伝によれば、義時は長男安千代が亡くなるとその菩提(ぼだい)を弔うために墓所として七堂伽藍の寺院を建立したとあります。
当時の仏殿には義時が運慶に命じて造ったと伝わる本尊「木造阿弥陀如来坐像」、南北朝時代造像の「木造観世音菩薩坐像」や北条政子の寄進と伝わる「牡丹鳥獣文繍帳(もんしゅうちょう)」などの貴重な寺宝が祀(まつ)られています。
いずれも静岡県指定文化財です。

北條寺の本堂
北條寺
伊豆の国市南江間862-1。
伊豆箱根鉄道「韮山駅」下車、徒歩25分

 

北條寺には義時夫妻の墓があります

三執権泰時らが父義時の追善供養として墓を建立

北条義時夫妻の墓

境内には義時夫妻の墓があります。
義時は「承久の乱」の3年後に鎌倉にて62歳で急死します。
子の泰時らは、北条氏発祥の地の当寺に墓を建て追善供養をしました。
向かって右が「義時」、左が後妻「伊賀の方」の墓だといわれています。
墓所は江間地区を見渡すことのできる小高い「小四郎山」の上に建てられ、静かに佇んでいます。

 

北条義時の登場場面

『吾妻鏡』に見る義時の初見

北條寺の山門

『吾妻鏡』治承4年(1180)8月17日の条に源頼朝は平家追討に挙兵します。
同20日の条には頼朝は伊豆国を出て土肥郷に向けて出発したときに付き従った武士46人の中に、父時政、兄宗時とともに義時の記述があります。
「義時」が『吾妻鏡』に登場する初見です。

 

池田の大蛇伝説

昔、江間の池田郷には大池があり、大蛇が棲(す)んでいました。
義時の長男安千代は勉学のため、珍野村にある千葉寺に通っていると、11歳のときに、大池の堤で大蛇に襲われ水底に沈められてしまいます。
その後、義時は大蛇の左眼を弓で射ると、大蛇は水底に潜ってしまいます。
このときから大池は少しずつ浅くなります。
ついには田地となり、池田の地名になったという伝説があります。

 

かん治さん

「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。