横浜市金沢区釜利谷の東光禅寺は建仁年間(1201~1204)に重忠が創建したと伝わります。
創建当時は鎌倉の薬師堂ヶ谷(現二階堂大塔宮辺り)にあり、医王山東光寺と称していました。
弘安5年(1282)に大興禅師を開山に招き臨済宗建長寺派の寺院となり、応仁年間(1467~1469)に現在地に移し“白山東光禅寺”と改めます。
ご本尊は薬師如来像で重忠の念持仏といわれ、日光・月光菩薩を従えた薬師三尊形式で、十二神将を従者としています。
寺宝には歴史資料的価値の高い酸漿蒔絵鞍(ほおずきまきえくら)等が伝わり、本堂内には東光寺殿(重忠)の位牌が祀(まつ)られています。

東光禅寺本堂
横浜市金沢区釜利谷南2-40-8。
京急線「金沢文庫駅」から徒歩25分

 

釜利谷郷・金沢郷は畠山一族にゆかりの地

金沢郷は重忠の所領と伝わります

ここ武蔵国釜利谷郷と金沢郷一帯は畠山一族にゆかりの地と伝わり、周辺には重忠の供養塔や首塚、戦死の地、子息畠山重保の墓等、畠山氏に関する伝説が多くあります。
元久2年(1205)に重忠が武蔵国二俣川で討ち死にすると北条義時の所領となります。

境内の伝畠山重忠供養塔

 

白山道は鎌倉と金沢を結ぶ要衝の交通路

朝夷奈切通”はその後に造られます

朝夷奈切通が掘削されるまでは、釜利谷を通る“白山道”が鎌倉と金沢間の要衝の交通路でした。
金沢文庫の称名寺は義時の孫北条実時の持仏堂が前身です。

 

重忠は鵯越で愛馬を背負って下りた

 “一の谷の戦い”では大将源義経の奇襲戦法「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」が有名です。
この時に怪力の重忠は、愛馬“三日月”がケガしないようにと背負って坂を下りたという逸話があります。
最後に落語“源平盛衰記”のご紹介を…。
寿永3年2月7日、義経主従がやって来たのは摂津・播磨の国境、鵯越の天険だ。
義経が手をかざして見ると逆落としにかける。
家来が言うには「この辺りは鹿が下りるくらいですから、馬も下りられない事はなかろうかと存じます」。
すると義経が「シカと左様か。ウマくいけば良い」。

畠山重忠の位牌

 

かん治さん

「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。