高徳院の大仏の頭には螺髪(らほつ)という髪があり、うずまき状で656個もあり、1個の大きさはサッカーボール位です。
額にあるのは白毫(びゃくごう)といい白い毛が渦を巻いたものです。伸ばすと4.5mもあり、この白毫から光を放ち人々を救うといわれます。
上体が下部より大きく、頭も体に比べて大きいのですが、少し離れてみると均整がとれた形に見えます。
右頬の部分に金箔(きんぱく)であった名残を見ることができます。
東国の総国分寺として草創されたという説
◆実際の相模国分寺は海老名市に遺構が残っています
高徳院の仁王門の前には石碑が立ち「聖武帝草創・東三十三箇國・總国分寺『大佛』」とあります。
石碑は江戸時代に立てたもので聖武天皇が関東の総国分寺として「清浄泉寺」を草創したということです。
『鎌倉大佛縁起』では天平9年(737)に由比の長者・染屋時忠を奉行とし行基菩薩を開山にしたと伝わります。
実際の東国の総国分寺は高徳院ではなく相模国分寺で、海老名市に遺構が残っています。
大仏殿の礎石が境内に置かれています
◆大仏殿の礎石は約60個あったようです
当初、大仏は大仏殿にまつられていました。室町時代に大風により倒壊し再建されずに今日まで“露坐(ろざ)の大仏”として親しまれています。
現在、境内には平たい礎石が置かれ、残るのは53個のようです。
大仏殿は七間四方の建物で計算上は64個(8×8)です。真ん中を4個抜いて約60個あったと江戸時代の記録があります。
江戸時代の大仏の復興
江戸時代の初期には大仏は元禄16年(1703)の地震等で荒れ果てていたようです。そこで芝増上寺祐天上人と弟子の養国上人は大仏の復興発願をします。
これに支援をしたのが江戸浅草の豪商・野島泰祐です。泰祐はその善業により「高徳院」という法名を授けられ、また一棟を建てて「高徳院」と名付けました。
大仏の前にある香炉は泰祐の寄進で観音・勢至菩薩が描かれ、大仏(阿弥陀如来)の脇侍として阿弥陀三尊形式となっています。
かん治さん
「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。