材木座と小坪の境にある“六角ノ井”は鎌倉十井の一つ。井戸の外形は四角で現在はシートで覆われています。中は石が組まれて八角形で小坪側に二角、六角が鎌倉側にあるため六角ノ井と呼ばれます。
源為朝(源頼朝の叔父)が伊豆大島から光明寺裏山の天照山にむけて放った矢が約70㎞先の、この井戸に落ち、その矢ノ根(鏃・やじり)が底に残るといわれ別名“矢ノ根ノ井”とも呼びます。
為朝は子供のころ暴れ者だった
◆為朝は古今無双の弓の名手
為朝は子供の頃から暴れん坊で手を焼いた父・為義に勘当されて、13歳の時に豊後国(現大分県)に追放されます。そしてわずか3年で九州を制圧し、鎮西八郎為朝を名乗ります。
為朝は身長7尺(約2.1m)という大男で弓の使い手というばかりではなく、史上最強の武人といわれた豪傑だったと伝わります。
為朝の射た矢の鏃(やじり)があります
◆鏃は竹筒に封じて井戸にまつっています
江戸時代初期に記された鎌倉の旅行記「金兼藁(きんけんこう)」=金兼は鎌(倉)を分けたもの=には、井戸の水を替えるたびに鏃を取り出して再び井戸の底に収めますが刃も欠けずさびたりもしないとあります。
かつては井戸替えの際に、鏃を入れる竹筒を取り替えていましたが、怠った年は悪い病がはやったと伝わります。
鏃は、今も竹筒に封じて井戸の中段にまつってあります。
三宅島の為朝の袂石(たもといし)
為朝は源義家の嫡孫で、源為義の八男。保元の乱で為朝は18歳で伊豆大島に流罪になると大島で頭角を現し近隣の島々を従えます。伊豆の領主は我慢がならず為朝を攻めると郎党を引き連れて三宅島に逃れます。島人は為朝を歓待します。その後は八丈島に渡ったという伝説もあります。
為朝の袂石は、床几(しょうぎ)の梁(はり)にするので常に袂に入れて持ち歩いたそうで為朝が三宅島に残した唯一の遺品との伝説があります。
かん治さん
「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。