画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: kanji-title.jpg
耕余塾跡 藤沢市羽鳥3-10-30(JR辻堂駅徒歩15分)

明治初期に藤沢羽鳥村の名主・三觜八郎右衛門(みつはしはちろうえもん)は漢学者小笠原東陽を招き、私塾読書院(とくしょいん)を開きました。
相州(神奈川県)第一の塾として評判が高まり、入塾者増加に伴い塾舎を新築し「耕余塾(こうよじゅく)」と改称。
農家の子弟が「耕耘(こううん)収穫」等の「余力」で、学問に励むという東陽の思いが塾名の由来のようです。

東陽没後に松岡利紀が塾長を継ぎます

◆元首相吉田茂も耕余塾の卒業生です 
明治20年(1887)に東陽没後は一時的に長男が塾長に、さらに東陽の娘婿の松岡利紀(としのり)が3代塾長になると、「耕余義塾」と改称。明治33年(1900)の閉校まで、政治、実業、教育の各界へ多くの人材を輩出しています。
元首相吉田茂や味の素の創業者・鈴木三郎助らも同塾の卒業生です。

小笠原東陽の墓。耕余塾にほど近い汲田墓地にあります

三觜八郎右衛門邸は国指定登録有形文化財

◆明治初期の建築は重厚な商家風建物でした
三觜家は代々羽鳥村の名主を務め当主は「八郎右衛門」を名乗り、第13代「佐次郎」が東陽を招いています。
邸宅は明治初期建築の木造二階建てで民家としては重厚な商家風建物でした。
平成25年(2013)に主屋等が国指定登録有形文化財に、建物の保存を望む声の中、令和4年(2022)に解体されました。

三觜八郎右衛門邸宅跡の碑

“吉田茂”の選挙演説中のエピソード

吉田茂は、昭和20年代、8年間にわたり首相を務めています。吉田は寒い冬の日に外套(がいとう)を着たまま街頭で選挙演説をしていると聴衆から「外套をとれ!」と野次(やじ)が飛びました。昔は選挙民の前で土下座してでも票を獲得するような立候補者もいたので、外套を着たままでは無礼だとでも思ったのでしょう。その時、吉田は顔色一つ変えず、「街頭演説だから外套を着ているのだ!」と洒落(しゃれ)で言い返しています。


かん治さん

「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。