

(画像提供 焼津小泉八雲記念館)
ラフカディオ・ハーンは、1850年6月にギリシャのレフカダ島で誕生。
母はギリシャ人、父はイギリス軍医でハーン自身はイギリス国籍でした。
16歳の時に遊戯中に左目を失明。
17歳の時には、両親に代わりハーンを養育していた大叔母が破産、その後は単身アメリカに渡り、苦学をして新聞記者となります。
英訳の『古事記』等の影響で日本に憧れを抱き、39歳の時の明治23年(1890)4月に船で横浜に着き、横浜からは汽車に乗って鎌倉や江の島を訪れています。
ハーンは来日直後の様子を著書に記しています
◆江の島へはトンボロ時に渡ったと思われます
ハーンは、来日直後に円覚寺、建長寺、円応寺、鎌倉大仏、長谷寺、江の島を訪ねています。
江の島へは対岸の片瀬から徒歩で出かけると記しています。江の島の木製の桟橋は明治24年(1891)に架(か)けられているのでトンボロ時に徒歩で渡ったと思われます。

ハーンの著書に“江の島行脚”の様子があります
◆江の島は“真珠貝の都”だとハーンは記しています
ハーン著「江の島行脚」の中で江の島は“真珠貝の都”だと記しています。
なお、現在の江の島・青銅の鳥居そばの「宝月(ほうげつ)」(真珠貝工芸品店)の貝細工は“白蝶貝(しろちょうがい)”で作られています。

ハーンは小泉セツと結ばれて“小泉八雲”と改名します
ハーンは明治23年8月に島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高校)に英語教師として赴任します。
翌年、ハーン(41歳の時)は身のまわりの世話をする島根県松江の士族の娘“小泉セツ”が縁あって雇われ、後に二人は結婚します。
明治29年(1896)2月、ハーン46歳の時に帰化手続きが完了して“小泉八雲”と改名します。
“八雲(やくも)”は出雲国の枕詞“八雲立つ”が由来といいます。
かん治さん
「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。