【2021年4月10日号】妙本寺(大町)は比企一族の邸跡に創建

長興山妙本寺(ちょうこうざんみょうほんじ)は日蓮宗の寺院で、創建は文応元年(1260)、開山は日蓮大聖人、開基は比企能本(よしもと・後の日学聖人)です。
山号の長興は能本の父能員(よしかず)の法号、寺号の
妙本は母の法号です。
祖師堂に祀(まつ)られている日蓮大聖人像は身延山久遠寺・池上本門寺の像と同じ一木で造られています。

妙本寺
鎌倉市大町1-15-1
JR鎌倉駅、江ノ電鎌倉駅から徒歩8分

妙本寺の祖師堂
妙本寺の祖師堂

 

 

能員と源頼朝とは強いつながりが…

能員は鎌倉幕府の有力な御家人
妙本寺の本堂
妙本寺の本堂

能員は頼朝の右腕として活躍した武将です。

頼朝没後に、嫡男・頼家は2代将軍になります。
能員の養母・比企尼は頼朝の乳母で、能員の妻は頼家の乳母になっています。
さらに能員の娘が頼家の妻になり、一幡を生みます。
能員は一幡の外祖父となり、比企氏は一方の重臣北条氏を脅かす存在となります。

 

比企一族と北条義時らとの戦いが…

この比企氏の乱で比企一族は滅びます
一幡の袖塚(五輪塔)
一幡の袖塚(五輪塔)

北条氏との権力争いで敗れた比企一族はこの地で滅亡。
一幡は焼死し、着ていた袖だけが見つかり袖塚に、母・若狭局(頼家の妻)は井戸に身を投げたといわれ、蛇苦止堂に祀られています。

この時に能員の末子・能本(当時2歳)は京都に逃れて、後に鎌倉に戻り、日蓮大聖人の弟子になり、一族の供養のためにこの地に法華堂を建てたのが妙本寺の始まりです。

 

けた違いの話 “千幡vs一幡”

建仁3年(1203)8月に病の頼家は重態になります。
そこで北条時政と政子は全国の地頭職を頼家の弟・千幡(後の実朝)と頼家の長男・一幡に二分してしまいます。
ここで比企氏と北条氏の対立は、益々激しくなります。
病床にある頼家と能員は時政追討を決定。
この話を障子の陰で立ち聞きしていた政子は父・時政に通報。
9月時政は名越の自宅に言葉巧みに能員を招いて殺害します。

主なき比企一族は北条氏等の大軍と戦いますが滅亡します。

“せんまんvsいちまん”は、けた違いだったようです。

 

 

かん治さん

「鎌倉検定は1級で
 お酒は2級を飲んでいまして、
 プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」
がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。

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