金剛寺は三代将軍・源実朝にゆかりの寺院です。実朝は右大臣拝賀の式後に鶴岡八幡宮境内で甥の公暁に暗殺されます。公暁は実朝の御首(みしるし)を抱えて逃走するも誅(ちゅう)殺されています。実朝は源家の菩提寺・勝長寿院(廃寺)に葬られますが『吾妻鏡』には「御首の在所を知らず…」とあります。その御首は金剛寺に埋葬されたと伝わっています。
平寺名は実朝の法号“金剛寺殿”にちなみます
◆退耕行勇を招いて実朝の供養をしています
実朝の御首は武常晴(三浦義村の家臣)が手に入れ、この地に埋葬したことが金剛寺の始まりと伝わります。実朝の供養は退耕行勇(実朝が帰依する僧)を導師としてこの地に手厚く葬られたようです。寺名は実朝の法号“金剛寺殿實相大禅定門”にちなんでいます。実朝の念持仏といわれる阿弥陀堂に安置の“阿弥陀三尊像”は実朝の追善供養で祀(まつ)られたと伝わります。(※同寺のご尊像は非公開です)
本堂には実朝像が安置されています
◆波多野忠綱が実朝の33回忌に再興
同寺は建長2年(1250)に相模国波多野荘(現秦野市)を本領としていた波多野忠綱が実朝の33回忌のために再興。本堂には実朝像等が安置されています。
“源実朝公御首塚”の五輪塔
実朝の石造の首塚は金剛寺から300mほど南側に祀られています。秦野市指定史跡です。当初は木造の五輪塔でしたが忠綱が再興の時に、石造の五輪塔に代えたようです。木造の五輪塔は現在、鎌倉国宝館に展示されています。首塚の近くには歌人としても名高い実朝の歌碑があります。歌碑は、秦野市が昭和35年に建立しています。
かん治さん
「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。