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勝長寿院跡の石碑/鎌倉市雪ノ下4-6-20 鎌倉駅東口から徒歩20分

勝長寿院(しょうちょうじゅいん)は源頼朝が父義朝の菩提(ぼだい)を弔うために創建しました。大きな寺だったので“大御堂(おおみどう)”とも、また大倉御所の南の勝地に建立したので“南御堂”とも呼ばれています。
源氏の菩提寺として隆盛しますが、室町時代に衰退して廃寺となります。公暁に殺された源実朝を埋葬し、母の北条政子も同寺で荼毘(だび)にふされています。現在は寺跡を伝える石碑がひっそりとあるだけです。

ご本尊は丈六金色の阿弥陀如来像です

◆奈良の大仏師“成朝”を鎌倉に召して造立
文治元年(1185)に頼朝が後白河法皇にひそかに依頼し父義朝の頸(くび)を探しだして、義朝の家人鎌田正清の頸と共に勝長寿院に埋葬します。ご本尊は成朝作の丈六(じょうろく)金色の阿弥陀如来像で、絵師宅間為久の描いた二十五菩薩が壁画に描かれていたようです。
※丈六(一丈六尺の略=仏様の標準的な高さ=約4.85m)

源義朝・鎌田正清の墓

“勝長寿院”の寺名は本堂名…

◆最初に創建のお堂の名前が寺全体の名前になったようです  
同寺は初めに本堂の“勝長寿院”が建てられて、弥勒堂・五仏堂・三重塔などが次々と建てられます。いつしか、この寺全体の名前として伝わります。“大御堂ヶ谷”の入口の滑川に架かる橋の名は“大御堂橋”として現在に残ります。

大御堂橋

“静御前”が大姫の為に芸を披露

文治2年(1186)5月27日の夜に入って、静御前が“大姫”の願いにより、“南御堂”で芸(白拍子の舞)を披露して褒美をいただいたと“吾妻鏡”にあります。源義経と静、木曽義高と大姫は共に悲恋に終わります。静が舞を披露したのは、同じ境遇の大姫を元気付けるためだったようです。