来迎寺は、もとは源頼朝が三浦大介義明の菩提(ぼだい)を弔うため、建久5年(1194)に建立の「能蔵寺」という真言宗寺院でした。
建武2年(1335)に開山の音阿(おんあ)が時宗寺院に改め「来迎寺」となります。
本尊は義明の守本尊の阿弥陀三尊像(市指定文化財)で運慶作と伝わります。
本堂の前には義明と孫の多々良重春の五輪塔が、本堂裏には三浦一族の墓石群が祀(まつ)られています。
鎌倉駅からバス乗車 バス停「五所神社」下車歩1分
三浦義明は三浦義澄の父です
衣笠城主義明は89歳で討ち死にします
義明は子の義澄らと頼朝挙兵に協力します。一方、平家方の大庭景親は畠山重忠等に衣笠城の攻撃を命じます。
重忠の母方の祖父が義明という姻戚関係で小坪合戦では一度は和議が成立しましたが、和田義盛の弟義茂(よしもち)等の3回もの誤解で義澄の甥(おい)多々良重春等が戦死をするなどして、三浦勢は本拠の衣笠城(現在の横須賀市)に引き上げます。
義明は義澄等に舟で房総へ逃れろと命じて、自らは衣笠城と共に討ち死にします。
三浦一族は代々源氏に仕えた一大勢力です
三浦氏には功績ある武将が数多くいます
三浦氏は頼朝の旗挙げ以前から源氏を支え、頼朝の父・義朝を供養する扇ヶ谷の堂は、義明の弟の岡崎義実が守ってきました。
義実は相模国岡崎(現在の平塚市・伊勢原市)に住してからは岡崎姓を名乗ります。
義明は頼朝の大恩人で義明の孫の和田義盛を、頼朝は初代侍所別当に任じています。
「百六つ義明公」と呼ばれた訳は…
義明は「私は源家累代(るいだい)の家人として、幸いにもその貴種再興の時にめぐりあうことができた」と言ったと『吾妻鏡』に記されています。
義明は、89歳で戦死しましたが、頼朝は十七回忌まで義明が生きたものとみなすよう伝えたため、「百六つ義明公」とも呼ばれています。
かん治さん
「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。