国道1号線の馬入川は相模川河口の呼び名。
ここにかかっている橋が馬入橋です。
そこから茅ヶ崎方面へ約2㎞行くと国指定史跡「旧相模川橋脚」があります。
橋脚は大正12年(1923)9月の関東大震災で突然水田の地中から出現しました。
この橋は建久9年(1198)の12月に源頼朝の家臣で武蔵の国を治める稲毛重成が、亡き妻(北条政子の妹)の供養のために架けた橋といわれています。

 

 

源頼朝の馬が突然川に入り頼朝が落馬したという伝説

馬入橋
馬入橋

その「橋供養式」に参列した源頼朝の乗る馬が突然暴れだし、川に入り込んだことから、この辺りの相模川を「馬入り川」と呼び、やがて「馬入川」と呼ばれるようになりました。

また、一説にはこの時に頼朝が義経らの亡霊を見て発病したといわれ、翌正治元年(1199)1月13日、53歳で亡くなりました。

 

 

馬入橋から約2kmにある国指定史跡

旧相模川橋脚
旧相模川橋脚

旧相模川橋脚は、歴史学者・沼田頼輔博士が『吾妻鏡』に基づき、重成が架けた相模川の橋脚と考証し、大正15年(1926)国の史跡に指定されました。

橋脚は檜の丸材で直径約60㎝前後、橋幅は約8~9m、長さは40m以上ある橋であったと推測されています。
現在は橋脚7本(他に地中に3本確認済)が見られます。

 

 

“頼朝落馬地”の史跡説明文

“頼朝落馬地”の史跡説明文
辻堂駅南口付近

頼朝落馬地の史跡説明文は辻堂駅南口近くにあり、『保暦間記』(ほうりゃくかんき)に

「建久九年の冬、右大将(頼朝)殿相模川の橋供養に出で、還らせ給ひけるに、八的ヶ原という所にて、亡ぼされし、源氏・義広、義経、行家已下の人々の怨霊現じて、将軍目を見合せり」

と記され、八的ヶ原(やまとがはら)とは辻堂の地を指しているとあります。

 

 

落語「源平盛衰記」

頼朝が後白河法皇から院宣をいただき、木曽義仲追討の場面です。
頼朝の愛馬の中でも名馬2頭は、佐々木高綱が「生唼(いけづき)」を、梶原景季が「摺墨(するすみ)」をそれぞれ頼朝から拝領して、宇治川合戦で先陣を争った話は有名です。
どちらが先陣を取るか馬券売りが出て来まして、「朝廷の御綸旨」をいただいたものですから、「これが最初の天皇賞だ…」。

 

 

かん治さん

「鎌倉検定は1級で
 お酒は2級を飲んでいまして、
 プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」
がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。