【2022年7月9日号〜かん治さんの歴史探訪】

材木座の東南の端の和賀江嶋は、日本に現存する最古の築港遺跡で国指定史跡です。
「和賀」は材木座の古名。この辺りは遠浅の海で大風や波浪で難破・破損する船が多く港湾整備が必要でした。すると貞永元年(1232)に、九州でも築港実績のある勧進僧往阿弥陀仏(おうあみだぶつ)が築島を幕府に申請。
3代執権北条泰時はこれに喜んで協力しました。

朝夷奈切通
和賀江島・稲村ガ崎・江ノ島・富士山の絶景。 鎌倉駅よりバス乗車「飯島」下車歩5分

干潮時には石積みが姿を現します

築島工事は約1カ月間で完成

泰時は家臣を派遣するなどして協力、また多くの住民の助成があり短期間で築島が完成。
鎌倉時代は海上交通が盛んで、多くの船が来る和賀江嶋は日本各地や中国の交易船で賑わいました。
現在では干潮時に島状の石積みが姿を現し、飯島岬から西方に約200m延びています。

干潮時の和賀江島

この辺りの呼び名は和賀江・飯島・西浜

江戸時代までは港として利用されていました

多数の丸石は相模川や酒匂川、伊豆海岸などから運ばれてきたようです。
江戸時代までは港でしたが、その後、震災や風化で積み石が崩れて平らになっています。
このあたりは、鎌倉時代には和賀江とか飯島、西浜と呼ばれていました。

材木座から見る和賀江嶋

 


“亀の前”騒動の場所は“飯島”

源頼朝は伊豆から愛妾(あいしょう)“亀の前”を鎌倉に呼び寄せます。
夫人政子が妊娠中には、小坪の家来の屋敷に、その後は飯島の伏見広綱の屋敷に亀の前を住まわせます。
亀の前が広綱の家にいる事を知った政子が継母牧の方の兄牧宗親に命じて広綱の家を打ち壊させます。
すると頼朝は宗親を叱責して髻(もとどり=束ねた髪のこと)を切って辱めます。
宗親の義弟の北条時政は頼朝の宗親への仕打ちに憤慨して伊豆国へと退く騒動になりました。


 

かん治さん

「鎌倉検定は1級で お酒は2級を飲んでいまして、プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。