皇大神宮は長治元年(1104)に鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘を伊勢神宮の御厨(みくりや)として寄進したので“大庭御厨”呼ばれるようになります。東は俣野河(現在の境川)、西は寒川郷に至る区域、北は大牧崎(現在の藤沢最北端)、南は海(現在の片瀬の一部・鵠沼・辻堂・茅ヶ崎の海辺の諸村)に至る区域で境川と小出川とに挟まれた広大な領地で“伊勢神領大庭御厨総鎮守”と定められ、あつく崇敬されてきました。
相模國土甘郷総社皇大神宮と称しています
◆第60代醍醐天皇の御代にこの地域の総社に列せられます
第60代醍醐天皇の御代(みよ)、延喜式が奉られたころに、奈良時代以来現在の藤沢市の内、藤沢・西富・大鋸・鵠沼・辻堂などの各地を合わせてとなえられていた相模國土甘郷(とかみごう)の総社に列せられ、この時以来、相模國土甘郷総社皇大神宮と称しています。
例祭には人形山車が繰り出します
◆九つの氏子町内会が製作しています
例祭は8月17日です。九基の盛装した人形山車が参進する光景は圧巻で「神奈川のおまつり五十選」に選定され昭和63年(1988)に藤沢市重要有形民俗文化財に指定されています。整列は昔から同じで、那須与一・源頼朝・神武天皇・源義経・徳川家康・楠木正成・浦島太郎・日本武尊・仁徳天皇の順です。九つの氏子町内会が製作しています。
那須与一宗高が弓と矢を奉納
皇大神宮は源平合戦の「屋島の戦い」で活躍した源氏方の武将“那須与一”ゆかりの神社です。与一は弓の名手で、海辺から海上に浮かぶ平家方の船に矢を放ち、見事に的の扇を打ち落とし、成功に勢いづいた源氏は平家に勝利します。与一は扇を射た時に使った弓と残りの矢を皇大神宮に奉納。併せて、所領の那須野百石を寄進しています。