修善寺の”修禅寺”は曹洞宗寺院
”修禅寺”の歴史は宗派的に、真言、臨済、曹洞の三つに区分できます。創立は大同2年(807年)で弘法大使とその弟子によって開かれた真言宗の寺で、その後、建長寺開山の蘭渓道隆禅師が一時居住すると臨済宗として栄え、次は北条早雲 […]
伊豆の国市の「願成就院」は北条時政の創建
“天守君山願成就院”は時政開基の寺院です。『吾妻鏡』 文治5年(1189)6月6日の条に時政が源頼朝の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して伽藍(がらん)を造営したとあります。 この辺りは現在の伊豆半島の北半部で、南条・北条・上 […]
伊豆の国市南江間の「北條寺」は北条義時の創建
「北條寺」寺伝によれば、義時は長男安千代が亡くなるとその菩提(ぼだい)を弔うために墓所として七堂伽藍の寺院を建立したとあります。当時の仏殿には義時が運慶に命じて造ったと伝わる本尊「木造阿弥陀如来坐像」、南北朝時代造像の「 […]
覚園寺は北条義時ゆかりの寺院
真言宗泉湧寺派の覚園寺(二階堂)は義時が建立の大倉薬師堂が始まりです。永仁4年(1296)に蒙古襲来の再来がないように北条貞時が四宗(天台・真言・禅・浄土)兼学道場としての寺の改めます。薬師堂ヶ谷の奥深い境内は古都鎌倉ら […]
鶴岡八幡宮上宮への石段は源実朝の悲劇の舞台
承久元年(1219)1月27日、三代将軍源実朝の右大臣拝賀の日は夜になり、雪が降り、二尺余り積もり…。拝賀の式に臨み、鶴岡八幡宮上宮の楼門に入ると執権北条義時は白い犬の姿を見て気分が悪くなり、剣持役を中原仲章に交代。実朝 […]
遊行寺の一ッ火(ひとつび)法要とは
時宗本山清浄光寺(遊行寺)では、毎年11/18~28の企画に歳末別時念仏が行われます。昔は年越しの念仏修行ということで年末に行われていた法要です。この行法の中で11/27の「報土入り」と「御滅灯(一ッ火)」 […]
梶原景時の墓(鎌倉市梶原)
深沢小学校裏手のやぐらの中に、四基の五輪塔があり、梶原平三(へいぞう)景時とその一族の墓と伝わります。景時は平氏軍でしたが、石橋山の合戦で源頼朝を見逃して救い、後に、嫡子源太影季(かげすえ)らと頼朝に仕えます。平氏追討で […]
和田氏と北条氏の武力抗争 「和田合戦」の発端とは…
信濃国住人の御家人泉親平が源頼家の遺児、千手丸を擁し北条義時討伐を計画。その発覚が和田合戦の発端で、賛同者の中に侍所別当和田義盛の四男義直、五男義重、甥の胤長(たねなが)の名がありました。義盛は頼朝の旗上げ以来、数々の功 […]
今宮(雪ノ下)は三天皇が御祭神の鶴岡八幡宮境内末社です
鎌倉幕府3代将軍源実朝の死去後に朝廷と幕府の関係が悪化。承久3年(1221)5月に後鳥羽上皇の朝廷側と幕府の戦い「承久の乱」が起こり、幕府が勝利します。乱後に後鳥羽院は隠岐、順徳院は佐渡、土御門院は土佐に流されます。後に […]