西行法師は歌人の僧侶ですが、昔は佐藤兵衛尉義清(のりきよ)と言う名の北面の武士でした。
どうして「西行」という名前に?
西行は東大寺再興勧進の為に各地を歩いていて多くの伝説が残されています。
鎌倉の裁許橋の別名
鎌倉に来た西行は源頼朝に歌道や弓馬のことを尋ねられ固辞しますが、重ねての願いに弓馬について語ります。
頼朝にもらった「銀製の猫」を外に出ると遊んでいた子供に与えたと『吾妻鏡』は伝えています。
御成小学校近くに架かる「裁許橋」は訴訟を裁許する問注所が近くにあったことに由来しますが、一説には西行がこの近くをよく往来したので、別名「西行橋」ともいわれています。
片瀬の「西行戻り松」にまつわる話
西行が江の島道の松の所で、子供が鎌を持ち歩いているので、「どこへ行く」と聞くと、子供が「夏枯れて冬ほき(麦のこと)草を刈りに行く」と和歌の上の句の形式で答えます。
歌のうまさに驚いた西行は「もっと精進しなくては」と、もと来た道を引き返したので「戻り松」の名が。
他にも西行が片瀬の「岐れ道」で、子供たちに道を聞くと子供が「この先、まっくらだよ」。
西行は、真っ暗じゃ仕方がないと引き返します。
西行は、耳が遠くて「かまくら」を「真っ暗」だと聞き間違えたようです。
辻堂・熊の森権現・西行の歌碑
辻堂駅南口徒歩5分の所にあり、説明文には頼朝の御家人畠山重忠のゆかりと記されています。
右側の石碑は西行の歌碑で、西行がここにあった根上がりの松に腰掛けて詠んだ句といわれます。
「柴松のくずのしげみに妻こめてとなみが原に牡鹿鳴くなり」
と刻まれています。
落語「西行」
関西の摂津・河内・和泉(今の大阪)から千人の美女を選び、さらにその中の一人に選び抜かれて天皇の側室となった染殿の内侍(ないし)に佐藤義清が恋をした話があります。
ある時、義清は歌で内侍に助け船を出すと二人は相思の仲に。
落語では、この恋に破れたため、僧侶となり、名も西へ行くべき「西行」と改めたことになっています。
かん治さん
「鎌倉検定は1級で
お酒は2級を飲んでいまして、
プレゼントをいただきますと喜んでサンキュウと言っています」
がお決まりの自己紹介。
「鎌倉ガイド」としても活躍する湘南通のアマチュア落語家。