覚園寺は北条義時ゆかりの寺院
真言宗泉湧寺派の覚園寺(二階堂)は義時が建立の大倉薬師堂が始まりです。永仁4年(1296)に蒙古襲来の再来がないように北条貞時が四宗(天台・真言・禅・浄土)兼学道場としての寺の改めます。薬師堂ヶ谷の奥深い境内は古都鎌倉ら […]
12月18日は「長谷寺」の歳の市
年の瀬の観音様のご縁日(18日)には長谷寺で「歳の市」が開かれます。参道には多くの屋台が立ち、飲食の他、だるま、熊手などの縁起物、神棚や暦などが売られます。昔は鎌倉市内の他寺社でも開かれていましたが、今は長谷寺だけです。 […]
鶴岡八幡宮上宮への石段は源実朝の悲劇の舞台
承久元年(1219)1月27日、三代将軍源実朝の右大臣拝賀の日は夜になり、雪が降り、二尺余り積もり…。拝賀の式に臨み、鶴岡八幡宮上宮の楼門に入ると執権北条義時は白い犬の姿を見て気分が悪くなり、剣持役を中原仲章に交代。実朝 […]
遊行寺の一ッ火(ひとつび)法要とは
時宗本山清浄光寺(遊行寺)では、毎年11/18~28の企画に歳末別時念仏が行われます。昔は年越しの念仏修行ということで年末に行われていた法要です。この行法の中で11/27の「報土入り」と「御滅灯(一ッ火)」 […]
梶原景時の墓(鎌倉市梶原)
深沢小学校裏手のやぐらの中に、四基の五輪塔があり、梶原平三(へいぞう)景時とその一族の墓と伝わります。景時は平氏軍でしたが、石橋山の合戦で源頼朝を見逃して救い、後に、嫡子源太影季(かげすえ)らと頼朝に仕えます。平氏追討で […]
鎌倉幕府跡は3カ所あります 最初は大蔵幕府
源頼朝は治承4年(1180)10月に鎌倉に入ると、大蔵(大倉)の地に寝殿造の屋敷を新造します。ここが最初の御所で「大蔵幕府」と呼ばれ45年間この地にありました。頼朝はここに侍所・公文所(後の政所の一部局)・問注所等を設置 […]
和田氏と北条氏の武力抗争 「和田合戦」の発端とは…
信濃国住人の御家人泉親平が源頼家の遺児、千手丸を擁し北条義時討伐を計画。その発覚が和田合戦の発端で、賛同者の中に侍所別当和田義盛の四男義直、五男義重、甥の胤長(たねなが)の名がありました。義盛は頼朝の旗上げ以来、数々の功 […]
今宮(雪ノ下)は三天皇が御祭神の鶴岡八幡宮境内末社です
鎌倉幕府3代将軍源実朝の死去後に朝廷と幕府の関係が悪化。承久3年(1221)5月に後鳥羽上皇の朝廷側と幕府の戦い「承久の乱」が起こり、幕府が勝利します。乱後に後鳥羽院は隠岐、順徳院は佐渡、土御門院は土佐に流されます。後に […]
遊行寺の本堂とご本尊
本堂は木造銅葺(どうぶき)で木造では東海道随一といわれます。ご本尊の阿弥陀如来坐像は、高さ六尺一寸(184cm)、浅草日輪寺塔頭の宝珠院が浅草寺から譲り受けたものです。宝永5年(1708)夏、遊行48代賦国(ふこく)上人 […]
「長谷寺(長谷)」の四万六千日
8月10日に長谷寺のご本尊をお参りすると、四万六千日分参拝したのと同じ功徳があるとされています。来山の方々には本尊の姿を表した「お身影(みえ)」が授けられます。当日朝4時から8時までの間は自由参拝になり、その間観音堂では […]